積年の後悔

決まった事柄に口出しをしなければ別に意見を言わなくていいんじゃないか?

 

と思って10数年生きてきたわけですが、思ったよりもこの考えは大勢にいい印象を与えてないみたいです。

「こうしてほしい」っていう欲求は勿論あります。絶対に曲げたくない事柄にはどんなに自分を傷つけても伝えようとはします。

が、二者択一だけどどっちでも一本満足な状況に置かれたとき、どんなアクションを起こせばいいのでしょう。

適当にどちらかを選んでしまってもいいのですが、それがよりよい結果に結びつくとは限りません。

もしも、多数決でそれが決まってしまったら

もしも、”「こうしてほしい」っていう欲求”を持ってそれに取り組んだ人がいたら

そんなことが起きちゃったら大きな後悔に苛まれることを、私は経験的に知っています。

私は一度後悔したら数日、数週間、数ヶ月と引きずって、忘れるまで忘れられない罪悪感に追い詰められながら、接触を無意識に避けてしまいます。よくないことかもしれませんが・・・

自分の安直な行為で傷つけてしまった人に、果たして私なんかが接触していいでしょうか。

 

そんなことばかりですから、私は”「こうしてほしい」っていう欲求”を持っている人の意見が採用されるべきと考えるようになりました。

やがて自分の意見も言えなくなり、”「こうしてほしい」っていう欲求”を私は押し殺すようになりました。

 

人にどう思われているかを一番最初に考えてから行動します。私に嫌悪している人には接触しないほうがお互いのためです。

こういう考えが、いつしか私を「人見知り」にさせてしまったのかもしれませぬ。

私を嫌悪している人が、私に接触されたら・・・彼は、私にどんな言葉を浴びせるだろうか。

私に嫌悪していない人が、私にきついことを言われたら・・・私への印象はどうなるだろうか。

話しかけられるわけがありません。図らずとも受動的な自分が完成します。

受動的にしかなれないことを理解したうえで、私を許容している私がいる。

 

後悔することが悪いことな訳がない。でも、私はそれに酷く傷つけられます。

人にきつく当たってしまったら相手はどんな思いをするだろう。

きつく当たってしまった自分は、どんな顔をしていればいいのだろう。

考え出すと止まりません。そこからは、自分に対する憎悪しか生み出されないのです。

いつから人を傷つけることを恐れるようになったかは定かではありませんが、今の自分は完全に自分を殺しています。

やりたいことも、多分やれなくなってる。

現実だけじゃない。ネットの世界も、八方美人に振舞っている。人を傷つけたくないから、嫌なことがあってもきつく当たれなくなってしまってる。

本当はやめてほしいことなんてうんざりするくらいあるけど、自分が我慢すれば誰も傷つかないから。

ごめんね

もしも言いたいことがあるなら、きちんと伝えたほうがいい。嫌なことがあるなら嫌って、絶対に言ったほうがいい。

 

「嫌なら嫌だと言ってくれ!」

 

みんなも気をつけて 私はもう駄目かもしれない

 

 

 

ブログには、本当の自分を前面に押し出すような役割を与えようと思っています。

矛盾が生じたり、自分のことを棚にあげたりすることもあるかもしれないけれど、そのときは思いを伝えてほしい。私の嫌な一面があったら「嫌だ」と言ってほしい!

もしそれが私にとってきつい指摘だったとしても、絶対に嫌いにはなったりはしないから!